四葩のノート

言語化とモチベーションの維持を目的とする記録

宝石の国 ※ネタバレ有

 

見直したり考えたりすればするほど変化してしまい一生書かないということが多いので、勢いのままつらつらと。

 

宝石の国」※ネタバレ感想

 

一日の隙を見つけ一気読みをした。

見逃している描写は多々あると思うが、個人的に感想文の題をつけるのであれば"フォスフォフィライトは永遠になったのだ"というところだろうか。(こういったセンスはどうにも育たない

ものである)

 

個人的前提としてまず、先生の外見・月人の描かれ方・死のない宝石たちの存在により、これは仏教の話なのだ、と読みはじめてしまったので楽しみ方を少々間違えたような、取りこぼしてしまった部分が多くあると思うので非常に勿体無いことをした。

ということは反省しつつ、読んだままのそのままの勢いでとりあえず一度感想を整理してゆきたい。

 

人間が失われた世では地獄と天国は混ざり合った。(自分の天と地の仏教観の解像度が低いため、どのような違いと隔たりと規則に則った地であるか不明瞭だが、少なくとも2つを分ける必要は無くなったのだろうと考える)

地上には無機物しか取り残されていない、祈りを知らぬ無機物は極楽浄土へはいけない。

また、人間は死後審判の際に必ず一度閻魔に会い罪の重さをはかられ審判が下される。といった知識とイメージを持ちながら読んだ結果の産物ということを踏まえ、改めて以下感想と考察。

 

フォスフォフィライトは祈られる対象にはなっただろうが、神に成ることができたのだろうか?

神を崇め奉るのは仏教ではない宗教の価値観に思う。

仏教は空を悟った"人間"を"仏"と見做す(少なくとも極楽浄土への行き方を示してくれる存在であるとみる)のであれば最後に地獄でそれを知ったフォスフォフィライトはどこへいくのか、

他の悟らず救われた者たち(後に祈るということだけを知った者たち)と同じ場所へ行くとは思えない、が仏教の祈り→死後極楽浄土へということを考えると物語内では"人間"だと認められたフォスフォフィライトは同じところへ行けるのだろうか。否、行かされるのだろうか。それはあまりにも不条理だと思う。

というところまで書いたところで終わりの描写を思い起こす。フォスフォフィライトは彗星となったのだ。今もなお宇宙を彷徨っている。巡っている。"フォスフォフィライト"のまま。

自分にもできる"何か"を探し"自分にしかできない"に押しつぶされ失い補いつぎはぎになり、小さな小さな結晶になってもフォスフォフィライトはフォスフォフィライトのまま。

 

 

個人的には面白かったというよりも、興味深く魅力的な作品であったと思う。連載を追い続けていたならば、もっとキャラクターへの想い入れが生まれたのだろう。誌面のカラーや発売した一冊一冊には色鮮やかな宝石が描かれていたのだろう、しかし私はそれを目にしていない。あまりにも駆け足で一気読みしすぎてしまった。フォスフォフィライトの全力疾走を見て目を回してしまった。

 

他者の感想や考察もきちんと目を通しておらず、本編の読み返しすらもできていないのでいずれ他の方の感想考察を見て読み返しもう少し仏教の知識をつけてから感想や考察を書いてみたい作品ではあった。

 

 

というところまで思い改めて考えると、フォスフォフィライトは一度人間と見做されたのちに神とされ最後に彗星となったのだから宝石である"フォスフォフィライトのまま"ではなくなったのかもしれない。

 

少々ネガティブな結びとなってしまうが、すべては身勝手な人間が生み出したもの。

そして"フォスフォフィライト"を人間にし神にし全てを押し付けて救われたその他の者たちもまた、心優しく純粋で傲慢で強欲で身勝手で皮肉にもいかにも人間らしいものたちだと感じた。

 

 

きちんと、というほどのものではないがそういったコミュニティに属したり交流をしてこなかったためか課題・宿題・参考文献等以外で一作品について自由に考えを書いたのは初めてのことだが、存外悪くなかった。

見返したいようなものではないが、将来的に見返す機会が来るなら、なんだこの妙な文章はまるでなっていないなと思うようになっているとよい。

時間はかかりそうだが。